国内最西端の最前線基地としての孤島の証「富岡城大手門跡」(苓北町)
鎖国政策を進めていた江戸幕府は、国内最西端の最前線基地として富岡城を乱後に強化。陸からの進入を防ぐべく、富岡半島の地理の特性を活かして東西に堀を設け、孤立した島へと分断していた場所...それがこの富岡城の大手門跡だ...
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大手門跡推定復元鳥瞰図
大手門の新築造
『天草・島原の乱』の後、寛永15年(1638年)6月3日に富岡城に入った築城の名手と謳われた山崎家治は、直後の6月下旬から城の増改築に着手しました。その理由は、城が一揆勢に攻撃されて大変傷んだことと、戦いによって城の守りの弱点が暴露されたことでした。
増改築の主眼は、第一に用水の不足、第二に城下の入り江の存在が防御面で大きくマイナスに作用したこと、第三に陸からの攻撃には無防備に近い状態であったこと、この三点にあったと思われます。
その増改築の一つとして、二丁目と三丁目の間を掘り割って東西の海を通じて、その畔に大手門を造りました。これによって富岡城は天草下島から切り離され、太古に島であった状態になりました。また、海からの攻撃に対しては、二丁目から城下にかけて海岸に石垣を築き堀を設けました。今日、大手門跡の石垣の西壁は天端石まで残っていますが、東壁部分は地表面にその痕跡を留めていません。
山崎家治(やまさきいえはる)大阪城築城において才能を遺憾なく発揮。富岡城を再建した後、日本一の高さの大石垣を誇る丸亀城を築城。城下町の整備を行った。
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富岡城の城歴
関ヶ原の戦い後に、天草の領主となった唐津藩主の寺沢広高によって慶長7年(1602年)に築かれました。世間では本城の唐津城を「舞鶴城」、支城の富岡城を「臥龍城」と呼びました。寺沢堅高の時代、寛永14年(1637年)に「天草・島原の乱」が勃発し、幕府側の拠点として一揆勢から3回の攻撃を受けましたが、唐津藩の必死の守りで城が守られました。
乱の終結後、天草は築城の名手と謳われた山崎家治の領土となり、乱で傷んだ城の修理と守りの強化のための縄張り拡大が行われ、今に残る「城絵図」に描かれた姿となりました。あたかも此の時期、江戸幕府は海外列強の侵略を恐れて鎖国政策を進めており、乱を契機に外洋に面した国内最西端の富岡城を列強からの守りの最前線基地として位置づけたものと思われます。
その後、乱後の復興事業にあたった鈴木重成、重辰代官の天領時代を経て、天草が私領に戻った戸田忠昌時代の寛文10年(1670年)に富岡城は、戸田氏によって破城されました。その後、忠昌は老中にまで登り詰めました。富岡城は約70年間存続しましたが破城後も三の丸に代官所が置かれ、明治初期まで富岡は天草行政の中心としての役割を果たしました。

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